それは暖かく 今まで感じたことのない心地よさだった
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「殿、そんなに文机ばかりに向かっていては気分が滅入りますよ」
季節はまだ寒さが残る初春。
桜の芽も膨らみ、あと数日すれば水口城の庭園を色鮮やかな色で飾るだろう。
「仕事だ。左近は俺に仕事をするなというのか」
三成は後ろに控える男に目線を合わすことなく言葉を返す。
名を島左近といった。
三成が半年前に自分の石高の半分を差し出して召抱えた家臣だった。
元は筒井家の家臣で跡継ぎとの折り合いが悪く筒井家を去り、浪人していた男であった。
三成はことのほか左近を気に入っていた。
左近は三成と20歳以上も年が離れており、まるで叔父と甥のような間柄だった。
左近は三成を諌めることはあっても否定はしない。
頭が固く、融通がきかない三成にとって左近は素直に接することができる存在だった。
「駄目ですよ。殿はそんなに体がお強くない。左近が知らないとでもお思いか?」
「何をだ?」
「昨日からまったく口に何も入れていないではないですか」
左近ははぁっとため息をついた。
左近は聡かった。三成の傍にいなくても何もかもお見通しと言わんばかりに三成のことを見抜く。
これがたまらなく三成は新鮮だった。
「はい、今日はここまでですよ。お疲れ様です」
左近は三成が何か言う前に硯を取り上げた。
道具が手元にあれば三成は隠れてでも仕事をする。
左近はこういった三成に世話をやくのが好きだった。
三成は硯を取り上げられてもなお、あと一文字といわんばかりに筆を紙から離さない。
見かねた左近が三成の手を握り、指を一本一本緩やかに外していく。
「と〜の〜」
「〜〜〜っつ!!わかった!わかったから手を離せ!!!」
「あ、」
三成が急に手を筆から離したためボトっと筆が紙の上に落下した。
紙は墨を吸い込み、黒く滲んでいく。
書状は無残にも黒く斑点を残し、結局今日の苦労は水の泡と化した。
「さ〜こ〜ん!!!!」
「あっはっは、いいじゃないですか、また明日やり直せば」
左近は全く悪びれず、また明日やればいいじゃないですかとえらく楽天的に言葉を返した。
三成はだんだん自分が片意地を張っているような空しさに駆られとうとうやる気を失った。
滲んでいく墨を見ながら左近の手が未だに己の手を握っていることに気づき、それに気がついた左近は握っている手に
さらに力を込めた。
ふたりは、一度だけ契りを結んだ。
それは恋愛ゆえの情交などではなかった。
左近を召抱えた晩、ふたりは忠義の誓いを交わし、寝所を共にした。
その行為は忠誠を意味した。恋愛などでは恋などではなかった。
「殿・・・・」
後ろから抱きかかえるように手を握り、左近は三成の言葉を待った。
一度きりの行いで恋が芽生えたわけではない。
この時代、こういった行いなどみんな経験済みだ。
しかし、この時すでに左近は主君に対し、親心と共に明らかに性的欲求が三成に対して芽生えていることを自覚していた。
なんと愚かしいと自分を恥じたが、こうも近くにいては押さえられなかった。
「・・・もうすぐ夕暮れか」
予想外の三成の言葉に左近は一気に夢想から現実に戻された。
「そうですね。本当にこの水口城から眺める夕日は美しい。夕餉まで近くを散策してはどうですか?」
「そうする」
力を弱めた左近の手から三成がスッとすり抜ける。
立ち上がると凛とした姿勢がまた美しいと思った。
「では侍女たちに夕餉の準備をさせておきますので、日が沈むまでには小姓を迎えに行かせます」
三成の家臣たちは三成に忠実だった。
世間では横柄者として嫌われているのに家臣たちは三成を敬い三成のために死する覚悟があった。
左近もまた家臣たちと同じく忠誠を誓い死すら惜しまない覚悟があった。
ただその他家臣と左近が違う点を言えば契りを交わしていないことであった。
この点で左近はまた思案する。
なぜ、三成は自分と契りを交わしたのか。
何度考えたところで答えはなかった。
近江水口に来てから、三成の密かな楽しみは城の周りの竹やぶを歩くことだった。
静かで澄んだ空気に触れ、心を落ち着かせていた。
左近と出会い、わかったことがある。
自分の何が人を不快にさせているのかということだ。
性分であるゆえ、今更この性格を直そうとも思わない。
左近はそんな自分を
『殿は損なお人だ。その真面目さがなければもっと人に好かれましょう。ですがそれも殿のいいところですな』
と言ったのだ。
左近は三成の性格を理解した上で諌めた。
そこで気がついた。自分の欠点を。
真面目とはいいことでもあるがそうでもないのだと左近は言う。
初めてであった。
秀吉にすらそんなことなど言われたこともなかった。
だから三成は左近を慕っていた。まるで親のように叔父のように。
恋愛感情などなかった。だが、契りは交わせた。
左近と出逢ったあの時、三成は思った。
『島の左近を 飼いならせたなら 』
欲求だった。
憧れとでもいうのだろうか。
左近は己のように非力ではなく逞しい体と智謀溢れる空気を持っていた。
そこに三成は惹かれたと同時に支配欲に駆られた。
支配し、支配されたいと思った。
だから買ったのだ。己の欲求を買った。
三成は左近に力以上のものを望まなかった。
そう願っていたはずだった。
しかし、左近はそれ以上のものを差し出した。与えた。
それが三成にとっての恐怖となる。
これ以上のものを左近に望めば自分はいつか囚われてしまうのではないかということだ。
昔のように囚われてしまうのは真っ平だった。
昔、長浜にいたとき。
三成、佐吉は同じ近習仲間の加藤清正に囚われていたとき――――― 。